| これから多少なりとも法律と係わっていこうとするとき(それがたとえ関税法や関税定率法であっても)、是非とも知っておいていただきたいことが、これからお話しする立法趣旨(りっぽうしゅし)の重要性です。
条文(法律)には、認識の世界(認識論、sein論、存在論)と解釈の世界(解釈論、sollen論)とがあります。ありゃりゃ、何だか難しい言葉がでてきましたが、まぁ別にこんな言葉を覚える必要は全くありませんので、とりあえず、まだまだ読むことを止めないでね♪
通関士試験を目指そうと考えている読者のみなさんには、本来なら関税法や関税定率法を例に挙げながら説明した方がよいのかもしれませんが、そもそも関税法について知識ゼロの方にいきなり関税制度の例を挙げても、余計に分かりづらくなるだけのような気がしますので、ここでは敢えて、う〜ん、人殺しの例にしましょう。もちろん、私は人殺しが趣味というわけではありませんので誤解なさらないように。
まぁ、そんなことはさておき、刑法199条には次のように規定されています。
刑法199条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは三年以上の懲役に処する。
この条文を見ると、至極単純なことが規定されており、別に問題とするようなことはないと感じられる方も多いかもしれません。
人を殺したら、「死刑」になったり「無期懲役」や「三年以上の懲役」となるわけですね。これらの「死刑」や「無期懲役」「三年以上の懲役」については別段の問題はありませんし、その意味もすぐに分かります。死刑の執行方法については、刑法とは別の監獄法という法律で規定されていますし(ちなみに絞首刑とされています)、懲役についてもきちんと規定されていますから、人を殺したら、そのような刑罰を受けるのだと知ることができます。これが認識の世界です。解釈は必要とはなりません。
ところで、動物を殺したら、この刑法199条が適用されるでしょうか。もちろん、適用されませんよね。なぜなら、199条は殺害の対象を「人」としており、動物は「人」ではありませんからね。この点についても、「動物は人ではない」という認識の世界の話であり、別段の解釈は必要とはなりません。
では、次のような場合はどうでしょうか。
産婦人科病院で、ある妊婦が胎児を出産中に、胎児の頭だけが母体から露出したときに、この頭を攻撃して胎児を殺した場合には、刑法199条は適用されるのでしょうか。
この場合には、まさに「人」の意味が問題となります。完全に母体の中にいる場合には「胎児」であり「人」とは言えません。しかし、この場合には、既に母体から体の一部とはいえ、外界に出てきているわけですから「人」と言えないこともないし、「胎児」とも言えるような、う〜〜ん、どうなんでしょう?となってしまうわけです。「人」なのか「胎児」なのかによって、結論が大きく異なってきます。「人」だとすれば殺人罪、「胎児」だとすれば堕胎罪となり、罪の重さも刑も全く異なります。一体、胎児はいつから「人」になるのでしょうか。条文には「人」と書かれているだけで、いつから「人」になるのかについては、どこにも書かれていません。つまり、条文を見るだけでは「人」の始期を認識することはできないわけです。そこで、解釈が必要となるのです。ちなみに、人の始期に関しては、幾つかの学説がありますが、日本の通説(大勢の学者さんが認める説)と判例(過去の裁判例)は、一部露出説を採用しています。つまり、胎児の身体の一部が母体から露出したときに「人」が出生したと考えるのです。
では、どうして、大勢の学者さんや裁判所は、一部露出説を採用しているのでしょうか。言い換えれば、どのように考えた結果、そのような結論を導いたのでしょうか。
それは、次のような思考経路を辿っています。いま、問題としているのは、刑法における「人」の概念です。そもそも刑法という法律は、人の生命・身体・財産などを侵害した者を処罰することにより、生命・身体・財産などの安全を保障しようとする法律ですよね。
199条の殺人罪の規定は、まさに人の生命をその攻撃から守るための規定です。そうだとすれば、出産にあたって、胎児が母体からたとえ一部でも露出すれば、これに対する直接的な攻撃が可能である以上、既にその時点で刑法の保護を受けるべきだと考えるのです。
ちなみに「人」の終期に関しても、刑法には規定がないため、解釈が必要となります。卑近な例に即して考えると、脳死状態に陥っている者の心臓をナイフで刺してその鼓動・呼吸等を停止させた者には、刑法199条の適用はあるのでしょうか。
ここでは、いつまで「人」であり、いつから「人」でなくなるのかという人の終期が問題となっています。具体的には、脳死をもって人は死んで、その時点でもう「人」ではない、ということにしてよいのだろうか、という、いわゆる脳死問題なのです。この場合、理屈としては、脳死をもって死とすれば、先の例ですと、死体損壊罪となりますが、脳死はまだ死ではないとすれば殺人罪が適用されます。最近では臓器移植問題とも絡んで、活発に議論されていますよね。医学上の死と法律上の死との関連、国民の死生観、現代医療の守備範囲など、難しい問題が山積していますが、興味ある方は考えてみて下さい。
とりあえず、刑法のたとえ話はこれくらいにしまして、「人」つながりということで、今度は、民法のお話をちょっとしてみましょう。
民法1条の3には「私権ノ享有ハ出生ニ始マル」と規定されています。つまり生まれたらいろいろな権利を持つことができる、ということです。この「出生」の具体的意味については、民法典の中のどこにも規定されていません。したがって、先ほど刑法の例で見たのと同様に、具体的にいつの時点で「出生」といえるのかがここでも問題となります。ここでも母体から胎児が一部露出した時点で「出生」したといってもいいのでしょうか。実質的には、いつから「人」といえるのか、という刑法での問題と全く同様の問題が民法でも起こっているのです。
ですが、民法の場合には、通説・判例は、刑法の場合とは異なり、全部露出説を採用しています。つまり、胎児が生きて母体から完全に分離したときに出生があったと考え、その時点から胎児は人となると考えています。
では、どうして刑法の場合と民法の場合とは、人の始期についての考え方が異なるのでしょうか。
民法はさまざまな市民生活上の事柄についての権利義務を定めた法律です。全部露出説を採用する大勢の学者さんや裁判所は、民法における人は、さまざまな権利義務の主体たるにふさわしい独立の存在としての人間でなければならないと考えているのです。
要するに、刑法と民法とでは、それぞれ立法の趣旨(目的)が異なるのですから、解釈が異なっても至極当たり前のことだというわけです。
ここでの話でくみ取っていただきたいのは、立法趣旨の重要性なのです。法律にもその目的がありますし、法律(条文)に規定された具体的な概念、制度、手続にも必ず目的があります。これらの目的のことを立法趣旨といいます。
法律上のすべての概念、制度、手続は、それが認識を問題とするのであれ、解釈を問題とするのであれ、それらは立法趣旨から導かれます。
これから先、関税法や関税定率法などを学習していきますと、一見ゴチャゴチャしたさまざまな制度や手続が出てきます。一般的な受験生は、それらを覚えて、覚えて、覚えまくろうとします。
まぁ、それはそれで一つの戦法ですが、立法趣旨から考えるクセをもてば、覚えようとなんてしなくても、それらの制度や手続が、実に立体的に、かつ、易しく見えてくる筈です。
もちろん、通関士試験では刑法や民法は出題されませんので、いままでのお話はすべて忘れていただいて結構です。また、通関士試験では、解釈の世界(解釈学、sollen論)は一切出題されません。認識の世界に終始します。関税関係法令について、その解釈をめぐって裁判沙汰になったのは関税定率法の輸入禁制品をめぐる問題や密輸入に関連した問題などを除くとほとんど見あたりません。関税関係法令の場合は、通達(命令の一種)でかなり細かいところまでしっかりと規定されていますし、もし解釈の必要が生じるような場面では、すぐに通達で規定してしまうという背景があります。
通関士試験学習では「解釈」が必要とされる場面はまずありません。もっと言えば、そもそも認識の世界と解釈の世界があることすら知らなくても何ら問題ありませんし、現にそのようなことを全く知らずに合格される方も大勢います。
ですが、「解釈」の要否とは別に、もしも常に立法趣旨から考えながら学ぶ姿勢を身につければ、通関士試験に超短期(具体的には数週間)で合格することも十分に可能ですし、しかも楽に合格することができます。
立法趣旨から考えるということの意味がよ〜わからん!という方は、こうしてみたらいかがでしょう。当たり前のように条文やテキスト、参考書などに書かれている事柄について、常に「どうしてなんだろう?」「何故なんだろう?」と疑問を持ちながら(=その理由を考えながら)学んでみるのです。名付けて(別に名付けなくてもいいのですが)、エジソン方式とでも呼びましょう。エジソンさんは、子どもの頃から、他の子どもが全く疑問を持たないような些細なことでも学校の先生に「どうして?」と訊ねまくって、先生から敬遠され、学校に行かなくなり、自宅で母親に教育を受けたことは有名です。その母親はどんな些細な疑問についても丁寧に答える教育をしたという話です。(その意味では、エジソンもエライけど、母親はもっとエライ!)
話が逸れましたが、とにかくそういうわけで、盲目的な暗記重視の学習ではなく、常に考えながらお勉強しましょうということですね。
人間は考える葦ですぞ。 |